扉を開けると一番に見るのはカウンター。





彼女はいつも俺の姿を見つけると、柔らかく微笑み読んでいる本をゆっくりと閉じる。






それが週に一度の習慣であり、楽しみでもあった。








そして…



そんな日常はある日突然終わってしまうのだと身を持って実感するのだった。









いつもの曜日、いつもの時間、いつもの場所…






なのに…




そこに彼女は居なかった。





















おとなりさん























「急に代わって欲しいって言われて…」






普段そこに座っている筈のの姿は無く、代わりに座っていたのは見知らぬ女性。





躊躇いながらも彼女の事を尋ねたら返って来た答え。








「何か伝言があればお伝えしましょうか?」





「あ…いや、また来週にでも来るから…」





女性の好意をやんわりと断り、出直そうと思った時。






「あ…交代したのは今日だけじゃないんです。」





「え?」





「これからは私が水曜日の担当になったので。」







手に持っていた彼女の本が急に重みを増したように感じた。





























「ふぅ…」





我ながら子供じみた逃走だと思う。




相手は私の事なんて何とも思ってはいないのだ。





なのに勝手にシフトを交代してしまったりして何やってるんだろう。






貸したままの本を持っているムウさんに迷惑を掛けてる。






律儀な人だから返さなきゃって思ってくれてるに決まってる。






でも…私には会う事が出来ない。








今この状態で彼と目を合わせてしまったら何かが崩れ落ちて壊れてしまう気がして怖い。






日常が日常じゃ無くなる瞬間…






見えない未来を不安に感じながら、私は逃げ出す事しか出来なかった。











部屋の窓から見える隣の喫茶店。





朝、店に入って行くムウさんの姿が見えた。





それから1時間くらいして出て行く姿も…。





その姿に胸が締め付けられて…蘇った数日前の夜のワンシーンが私を更に苦しめる。














もう彼に会ってはいけない。




距離を置かなくてはいけない。





自分の中のもう一人の自分がそう叫ぶ。










会わなければ忘れられる?





距離を置けば以前の自分に戻れる?








そんなの…分かる筈ない…













静かに時を刻む秒針の音に耳を傾けながらゆっくりと瞳を閉ざす。






少し眠ろう…





せめて、夢の中では何もかも忘れさせて…































「え?ちゃんお休みなの?」





「あぁ、行ったら別の曜日と交代したんだと。」





「そう言えば今日は出掛ける姿を見てないわ…。

 てっきり早くに行ったんだと思ってた。」





頬に手を添えながら窓際へと歩み寄ったマリューは隣の家の窓を見上げた。






「…カーテンが閉まってるわね…。」






隣に立って同じ方向を見上げると薄いピンクのカーテンがフワフワと揺れている。





窓は開いている…って事は家に居るという事か…












「借りてる本を返したいんでしょう?私が預かっておく?」





「あ…いや…自分で返すよ。」





「…そう?」





「借り物だしな…直接渡すのが礼儀ってもんだろ…。」






























ピルルルルッ…









「…ん…」




電子音が私の眠りを妨げた。




ベッドの上で無防備に眠っていた私は現実世界へと引き戻される。







「電話…」





煩く鳴り響くそれを手に取り、顔をしかめた。





見た事の無い番号が画面に映し出される。





何も寝てる時に間違い電話を掛けて来なくてもいいじゃない…。




少し苛立ちながらも止まる気配のない音に負け、通話ボタンに手を掛けた。










「…もしもし?」





『…?』





「……………え……?」




まだ覚醒しきっていなかった意識が一瞬にしてクリアになる。







「どうして…この番号…」











教えた記憶は無かった。




番号さえも交換してなかったんだなぁ…と関係の希薄さに苦笑したのは数時間前の話。









『図書館に行ったら水曜が休日になったって聞いてビックリしたぞ?』





「…あ…すみません…」





『借りてた本、返そうと思って。

 ちょうどマリューの店に居るんだけど、今時間あるか?』





「あ…えっと…」





耳元から聞こえるムウさんの声に頭が追い付いていない…





「ごめんなさい…今日は体調が悪くて朝からずっと寝てて…」





『…大丈夫か?』




「はい…ちょっとした夏バテだと思うんで…」





『無理言って悪かったな…』





「いえ…こちらこそ気を遣わせてしまってすみません。

 あの…本はマリューさんに持っていてもらって下さい。今度取りに伺いますから…。」





『いや…でも…』




「気にしないで下さい。」





『そうか?じゃあ…預けておくから…ゆっくり休めよ?』





「はい…ありがとうございます。」


























「夏バテ…ねぇ…」





「…いつから居たの…?」





気付けば部屋にはハイネが居て、腕組みしながら壁に凭れ掛かっていた。






「同じく、図書館に行ったら別の人間がカウンターに居て驚いたんだけど?」





「連絡しようと思ってたんだけど…」






ハイネの顔がまともに見れないのはきっと罪悪感があるから…








ゆっくりと近付く足音が聞こえ、頬に添えられた手が顔を持ち上げる。





ぶつかった視線の先には冷たい瞳。










「俺の存在さえ忘れてたように見えるんだけどな…」




冷たいのは瞳だけじゃない。




私に放たれた言葉には怒りを含んだ感情。







「俺が気付いてないとでも思ってたのか?」





黙って首を左右に振る事しか出来ない。






「…何年も一緒に居たんだぞ?お前の心境の変化にくらい気付くさ。」







「…ごめ…」










無意識に出た謝罪の台詞。





同時に瞳には熱いものが込み上げて来る。






ハイネは静かに触れていた手を離すとその場に座り込んだ。











「そんな素直に謝られちゃ怒る気も失せる…」







触れていた手は自らの髪をクシャクシャに崩した。





「よりにもよってムウさんかよ…冗談キツイぜ…」





「……っ…」





ハイネにそう言われた瞬間、込み上げていた涙が一気に溢れ出た。






「さっさと忘れちまえよ…そんなもん…」





「……え…?」





「あんないい女が隣に居る男だぞ?

 どう考えたってお前なんか相手にして貰える筈が無いんだよ。」




「…わ…かってる…」




「どう見たって妹扱いだろ?」





「わかってるよ!!」





「分かってない!!」






「やっ…!!」







力強いハイネの腕が私の手首を捉え、そのままベッドに倒れ込んだ。






「何が『分かってる』だよ…」




「ハイネ…離して…っ…」




「お前、どんな顔してあの人と喋ってるか本当に分かってるのか?」




「…何言っ…」




「俺と一緒に居る時よりもずっと『女』の顔、してるんだよ…」










ハイネの言葉に呼吸が止まった気がした。





ムウさんと一緒に居る時の自分の顔なんて見た事がある筈無い。





『女』の顔って何…?






「気付かない振り…してたのにな…」






微笑したハイネとの距離が次第に縮まって行く。





「…や…っ…」




振り解こうとしてもその力強さがそれを許してはくれない。





反射的に閉ざした目と、ハイネから逸らす顔。




それと同時に手首に感じていた圧迫感が消えた。












「前にキスしたのって…いつだったか忘れたよな…」





「…ハイ…ネ…」







「悪い…お前だけの責任じゃ無かったな…」






「違…っ…」





「お前の気持ちを繋ぎ止めておく事さえ出来なかった癖に…」








何でそんなに優しいの…?





築き上げて来た信頼関係を壊したのは私の方なのに…どうして…







「…の気持ちが落ち着いたら連絡してくれ。」





「え…?」




「それまでは俺からは連絡しないし、会いに来ない。」





立ち上がったハイネは再び振り返り、瞳に溜まる涙を掬って言った。








「俺以上に辛いのはだからな…これから…」





返す言葉が見付からない…。





最低だ…ハイネを傷付けたのは私の方なのに…






「…覚悟…出来てるのか?」




「…分からない…」


























「…電話番号さえも知らなかったんだな…」





マリューのお隣さんじゃなければ家さえ知らなかったって事か…





店を出て再び見上げた彼女の部屋は相変わらずカーテンで閉ざされたまま…





考えてみれば知らない事だらけだ。





一緒に食事をして…映画にも行って…




妹みたいな存在だと思っていた割には彼女の事は何も知らない。






知っている事と言えば本の趣味くらいだった。









「所詮は図書館司書と利用客の関係…か…」





それさえも途切れてしまいそうだが…




ふと顔を上げると彼女の家の前に1台のバイクがある事に気付いた。





見覚えのあるそのバイクは俺がと図書館以外の場所で再会したあの日に見た物だった。





彼女の向かいに座っていた…彼の…










「彼氏だもんな…当然か…」




体調が優れないと言っていた彼女を見舞っているのだろうか…。






バイクの横を通り過ぎ、少しずつ彼女の家から遠ざかる。









次に彼女に会えるのはいつの日になるのか…






















【あとがき】

当初の予定よりちょっぴり修羅場っぽくなってしまいました。

別れではなく、距離を置くという展開で…

ハイネを「いい人」にしたかったんですが、あっさりと引いてしまったらそれはそれでちょっと…と思いまして。

そんなの余計に罪悪感感じちゃう気がするんですけどね…実際。

大きく動いたヒロインサイド、少しだけ動き始めたムウさんサイド。

あとはマリューさんですね…ここからの鍵は。

ここまでお付き合い下さいましてありがとうございました。

続きもお読み頂けたら幸いです。





2007.7.15 梨惟菜









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