「今日は…っと…」
出掛ける前の僅かな時間に、は必死に指で本棚を辿る。
同じ作家の並ぶ著書がズラリ…と並ぶその本棚は彼女の自慢。
「コレにしよ…。」
選んだ1冊を抜き取り、そのまま鞄にしまい込む。
「いっけない!もうこんな時間!?」
時計は既に出勤時刻ギリギリを指していた。
薄手の上着を羽織り、お気に入りの靴を履いて玄関を飛び出す。
「ちゃん、おはよう!」
「あ、マリューさん、おはようございます!」
玄関を飛び出して通りに出ると、外の掃除をしていた彼女の姿。
「今日はいつもより遅めなのね…間に合う?」
「大丈夫です!走って行けばギリギリセーフ!」
「気を付けて行ってらっしゃい!」
「はぁい!行って来ます!!」
笑顔で手を振り、は図書館へ向かって走る。
また…水曜日がやって来た!!
おとなりさん
「はぁ…今日も退屈…。」
小さく呟きながら、は鞄の中から本を取り出す。
お気に入りの本は決まって作者が同じ。
それを午前中には読み終えてしまう。
今日も恐らくはそうだろう。
そして残りの時間は常に入り口を気にしながら過ごすのだ。
いつしか水曜日はそれが当たり前になっていた…。
きっと今週も夕方くらいになるんだろうな…。
ムウさんが毎週この図書館に訪れるようになってから…
いつも彼があの扉を開けて入ってくるのを楽しみにしてる…。
名前と職業くらいしか知らない…。
欠かさず来てくれるけど、あまり会話を交わす時間は無い。
だから、彼について知らない事の方が圧倒的に多いのだ。
年はいくつなのか…
趣味は何なのか…
恋人は…居るの…かな…
「よっ」
「…え!?」
急に声を掛けられて、は慌てて顔を上げる。
そこには予想外の人物が立っていた。
そう…予想外の…
「いや…そんな驚かなくても…」
「あ…すいません…いつも夕方くらいに見えるから…」
「たまには早く来てのんびり過ごしてみるのもいいかな…って思ってね。」
思っていたよりもずっと早い時間に現れたムウさん。
心の準備が出来てなくて…不意打ちだ…
「昼休みは何時から?」
「え…っと…13時から…ですけど?」
「良かったら一緒にどうだ?」
「え…?」
思いがけない誘いには戸惑いながらも…頬が熱を帯びている事に気付かないように努めていた。
名前と職業しか知らなかった彼とこんな風に過ごせるなんて…
「そう言えば…俺達って名前と仕事くらいしか知らないよな。」
「私も同じ事考えてました。」
近くのパン屋さんで買ったサンドイッチを、図書館に並ぶ公園で広げた。
ハイネ以外の男の人とこんな風に食事するなんて…凄い久し振りな気がする。
何だかんだ言ってハイネとの付き合いは相当長い。
「改めて自己紹介、しとくか。」
「ふふ…そうですね…」
僅か1時間の昼休みの間に、私達は互いの事を教え合った。
年齢差は5歳。
私が23歳でムウさんは28歳。
実は私と同じ大学の出身だった事。
大学の周りにある色々なお店の話で盛り上がったり…
趣味は映画鑑賞。
私と同じ。
活字があまり好きじゃない彼は原作を読まずに映画を観に行く派。
私はその逆。
だから、同じ映画でも視点が違ったりして新鮮。
話してると楽しい…。
本当にあっという間の1時間で…このまま仕事をサボってしまいたいと思わせるくらいに…。
「そろそろ仕事に戻らなくちゃ…ムウ…さんはこれからどこか行かれるんですか?」
「ん〜折角だしな…本でも読んで行くか…。」
「あ…忘れてた。 今週の本です。」
「いいのか?さっきまだ読みかけだったろ?」
「何度も読んでますから。」
「…流石だな。」
「上の空」
「え…っ?」
急に鼻を摘まれて、は目を見開く。
目の前に座っているのは私の一番身近な人で…一番好きな人…
「仕事、忙しいのか?」
「全然」
「じゃ、職場の奴と気が合わないとか?」
「全然」
「じゃあ、何考えてたんだ?」
ハイネは不満そうに問い掛ける。
デート中に上の空は悪かった…なぁ…
そんなつもりは無かったんだけど。
相変わらず論文や講義で忙しいハイネと会える時間はほとんど無い。
週に1回会えればいい方だろう。
しかも、夕食を一緒に食べるくらいしかしてない気がするし…。
最後にちゃんとデートしたのっていつだったっけ…。
もしかしてホワイトデーとかに遡るんじゃ…
「ホラ…また考え事してる。」
「…ったぁ…鼻摘まないっ!
最後にちゃんとデートしたのはいつかなって考えてたの!」
「…いつだっけ?」
「最悪…。」
忙しいのは分かってるけど…
こんな状態じゃ愛も冷めるっての。
季節は初夏…
気が付けば6月に入っていて、もうすぐ梅雨の季節だ。
ムウさんと知り合って…結構経つんだなぁ…。
「そんなに俺から提案。」
「…何?」
「あのさ、別の曜日に休み取るとかって出来ない?」
「別の曜日?シフト組む前だったら大丈夫だけど?」
「今月の14日、休講でさ、休みになるんだ。」
「14日…」
素早く鞄から手帳を取り出して、カレンダーをなぞる。
「…水曜日…」
「休み、取れないか? 久々に朝からデートしようぜ?
何なら火曜から泊まりでもいいけど…な。」
水曜日…
ムウさんがお休みの日…
彼は欠かさず図書館に来てくれて、私が用意した本を借りて帰ってく。
それが密かな楽しみである事をハイネに言える筈が無い。
断る理由も無い…。
よりにもよって、彼以外の男の人と会うのが楽しみでデートの誘いを断るなんてあり得ない。
っつーかおかしい…よね…
「分かった。 休み貰える様にお願いしておくね。」
「…来週の水曜日、お休み貰うんです。」
「へぇ…水曜休みなんて珍しいな。何か用事でもあるのか?」
6月7日
先週に引き続いて午前中に現れたムウさんとランチをしていた。
「ちょっと…出掛ける予定が入ったんで…。」
「へぇ…じゃあ来週は映画でも観に行くかな。」
そう言われたら普通は深く追求しないよね…。
『彼氏とデート』
たったそれだけの単純な理由なのだけど、ムウさんには言えなかった。
言いたくなかった…なのかな…
彼が居るって事…ムウさんが知ったらどんな反応するのかな…。
予想は出来る。
きっと、何とも思わずに普通に会話は続く。
活字に興味を持ち始めた人と、たまたま図書館に勤める司書。
それがきっかけで知り合いになっただけ。
それ以上でもそれ以下でも無い。
いわゆる、『お客さん』と『店員』みたいな関係。
ただ…それだけ…
「…という訳で、今週は2冊持って来たんです。」
「いつも悪いな…が選んでくれた本、どれも読みやすくて面白いんだ。」
「…作者が同じですもん。 ある程度の展開は偏りますよ。」
「言われればそうだよな。」
他愛ない会話が心地良い。
隣から聞こえてくる微かな低音がしっとりと耳に残る。
何て…魅力的な声の持ち主なんだろう。
この声を聞いていると本当に落ち着く。
最近ではハイネの事よりも、ムウさんの事を考えている方が圧倒的に多い。
本当に最悪だ…
コレって…浮気?
浮気…なのかなぁ…。
でも、私が一方的に見てるだけだから浮気とは言わないのかな…。
でも『気が浮つく』で浮気だから…やっぱ浮気?
「考え事か?」
「あ…いえ、そろそろ梅雨の季節だなぁ…って思って…。」
少し薄暗くなってきた空を見上げながら話を逸らした。
「そうだな…雨の季節…だな…。」
今にも降り出しそうな曇り空。
まるで今の私の気持ちみたいにハッキリしない…嫌な感じ。
人の気持ちって難しい…
『From:ハイネ
Title:無題
14日、10時に隣の喫茶店でいいよな?
迎えに行くから弁当よろしく。』
「短っ…」
ハイネからのメールはいつも短文。
基本的にメールは面倒だからって電話の方が多い。
時間的にも中途半端だからきっと授業中かな…。
了解との簡単な返事を送ると、パタンと携帯を閉じる。
私も携帯にはほとんど依存しない人間だ。
必要以上に開く事はほとんど無い。
「それじゃ…お先に失礼します。」
「あ、ちゃん。」
「はい?」
先輩に呼び止められて足を止める。
「明日、お休み取ってるのよね?」
「あ…はい。我が侭言って済みません。」
「それは全然良いのよ。仕事の引継ぎもちゃんとしてくれてるし。
それよりも…」
「はい?」
「いつも水曜日に来てる彼とデート?」
「はい!?」
耳元で囁かれ、声が裏返った。
「ち…違います!あの人はそんな…っ!」
「そうなの?すごく親しいし似合ってるからてっきり…って思ったのに。」
似合ってる…?
そう言われて頬が紅潮した。
「その顔…満更でも無いって感じ?」
「そ…そんな事無いですっ…」
ザァァァァ…
6月14日、水曜日
前の晩から降り始めた雨は翌朝になって更に強さを増していた。
「ハァ…」
何かなぁ…
久し振りのデートだっていうのにこの天気はハッキリ言って興ざめだ。
「折角のデートなのに残念ね…。」
「あ…ありがとうございます。」
カウンターに腰掛けながら窓の外を眺めるの目の前に置かれたのは1杯のコーヒー。
マリューさんが淹れてくれる、私のお気に入りの味。
「美味しい。」
時計は10時10分を指していて…
いわゆる…ハイネの遅刻ってヤツだ。
まぁ…遅刻もいつもの事だから今更って感じだけど…。
「何処へ行く予定だったの?」
「…遊園地…だったんですけど…」
「この雨じゃ無理…ね。」
梅雨の時期のデートに遊園地って提案の方がおかしいかもしれないな…と思いながら、もう一口コーヒーを含む。
ほろ苦い味が口内に広がった。
「そう言えば…どうしてまだコーヒーを淹れてるんですか?」
会話をしながら、マリューさんはカップをもう2組用意していた。
この雨の所為か、お客さんは以外1人も居ない。
普段はモーニングの時間帯で多少混雑している店内は閑散としている。
なのにどうしてコーヒーの準備なんか…
1組はきっと…もうすぐ来るであろうハイネの分。
じゃあ…もう1組は?
「…彼がね…来るのよ。」
「えっ!?マリューさんの彼!?」
恋人が居る事は知っていたけど、実際に会った事は一度も無い。
「水曜が休みでね、いつもこの時間帯にモーニングに来るのよ。」
いつもなら私は働いてる日…
だから会えなかったんだ。
「マリューさんの彼、楽しみだなぁ。」
きっと、優しくて大人で包容力のある人なんだろうなぁ…。
頼れる大人の男の人…。
そう思った瞬間にムウさんの顔が浮かんでしまう。
今日は映画に行ってるのかな…。
それとも、雨だから家で本を読んでるかも…。
カラン…
扉のベルが鳴って、誰かがお店へ入って来た。
「いらっしゃい。お待ちかねよ?」
振り返るとそこには案の定、ハイネの姿。
「遅い。」
「悪い。」
「冷えたでしょう?どうぞ。」
「すいません。いただきます。」
の隣に腰掛けたハイネはコーヒーを口に運ぶ。
一呼吸置いて話し始めた。
「予定変更だな…どうする?」
「…そうねぇ…どうしよっか…」
一向に止む気配の無い雨。
そうしている間にも時間は流れる。
「あ…朝食は摂ったの?」
「いや…急いで来たし。」
「じゃ、とりあえずここでモーニングしてったら?」
「どうしたんだ?珍しくのんびりだな…。
いつもなら遅刻したら大激怒なのに。」
「分かっててするのね。ま、いいけど。
あのね、もうすぐマリューさんの彼が来るの。」
「会ってみたい…って事か。」
「そういう事。」
「んじゃあ、そうするか。
すいません、トーストセットでお願いします。」
「ふふ…すぐに用意するわ。」
マリューさんは笑顔で厨房へと入っていった。
「で、食べたらどうする?
久々に映画でも行くか?」
「え…映画…?」
「何?いつもなら喜んで飛び付くのに。」
「…今公開してる作品にはあんまり興味無くて…。」
咄嗟に嘘を吐いた。
だって…今日はもしかしたらムウさんが居るかもしれないんだもの…。
もしもバッタリ会っちゃったら…
そう懸念してる自分が居る。
「じゃあ…買い物にでも行くか?」
「そう…だね…。」
本当は観たい映画…何本かあったんだけどなぁ…。
カラン…
その時、お店の扉が開く…。
「今日は遅かったのね…。」
音を聞き付けたマリューさんが厨房から顔を出した。
「凄い雨だな…ビショ濡れだ…」
え…?
そう言いながら近づいて来る足音…
この声…
間違いない…
毎週聞いている声と同じものだ。
マリューさんの彼って…そんな…
恐る恐る…体を反転させた。
「………」
「え…?」
彼と視線がぶつかる。
ムウさんが…マリューさんの彼…だったなんて…
【あとがき】
本当に久し振りの更新です。
「まだ続いてたんだ?」的な…本当に。
ムウさん大好きなので凄く書きたかったんですが!ですが!
やっぱり本編沿いに手一杯の状態でした。
だって本編沿いさえまともに更新できていないんですもの…。
今回はちょっと長め…ですかね…
ダラダラしていてもどうしようもないので、早くも鉢合わせてみました。
ここから四角関係の始まりです。
次はもう少し早く更新したいと思います。
久々にお付き合い頂きましてありがとうございました。
2006.7.10 梨惟菜